大分の歴史★キリシタン編★その二?フランシスコ ザビエル
- 更新日:2009年07月20日
- カテゴリ:歴史
イエズス會の創設メンバーの一人。
アジアの各地で布教活動を行い、『東洋の使徒』と呼ばれる聖人。

大分市大手公園のザビエル像
(寫真撮影日:2009年 6月22日)
(寫真撮影日:2009年 6月22日)
ザビエルのご紹介
スペイン北部の小國:ナバラ王家の末っ子として誕生する。
9歳のとき、ナバラ王國が、スペイン王國に併合される。
1517年 ルターの宗教改革が始まる。
8年後の19歳のとき、パリ大學に留學。
哲學を専攻するが、友人らの影響もあって宗教に関心が高まる。
スペイン北部の小國:ナバラ王家の末っ子として誕生する。
9歳のとき、ナバラ王國が、スペイン王國に併合される。
1517年 ルターの宗教改革が始まる。
8年後の19歳のとき、パリ大學に留學。
哲學を専攻するが、友人らの影響もあって宗教に関心が高まる。
6人でイエズス會を創立する~このとき28歳
イエズス會は、ローマ教皇にも認められ、活動がより盛んになる。
35歳のとき、ポルトガル王の要請により、會員4名でアジアへ布教に赴く。
トーレス神父らと共に、インドのゴアで布教活動を行い、信者を多く獲得する。
マレーシア~インドネシアにも、布教の活動範囲を広げる。
ここで日本人と出會います。
その日本人の話では?????
1543年ポルトガル船が種子島に漂著した。
そのとき、鉄砲とキリスト教が伝來した。
以降、日本では南蠻貿易が盛んになっている。
ザビエルは、その日本人から日本の文化と宗教観の高さに感心した。
そして、日本に赴き、キリスト教を広めることを決意する。
1549年の43歳のとき、薩摩に上陸し、大名:島津氏に謁見を許される。
戦國時代の島津家では、將軍や天皇への謁見段取りが出來なかった。
平戸に寄った後、周防の大名:大內氏に謁見し、領內の布教許可を得る。
周防にトーレス神父を殘し、海路で堺に陸路で京へ向かう。
しかし、京では將軍や天皇に謁見が許されず、失意のなか周防に戻る。
1551年ポルトガル船の豊後入港を聞き、海路で國東に陸路で府內に赴く。
21歳の大友 義鎮(のち宗麟)に謁見し、豊後領內での布教許可を得る。
同年に一旦ゴアへ戻る。
日本での布教は、中國大陸からが早道だと考え、中國行きを決意する。
中國広東省に向かう途中で病死する~享年46歳。
沒した70年後の1622年に、聖人となる。
イエズス會
高等教育?宣教活動?社會正義事業を理念の柱とする男子修道會。
現在でも世界中に2萬人の會員がいるそうです。
反プロテスタントでは無く、カトリックの原點回帰を目指す改革派の會です。
元騎士イグナティウスが初代総長で、「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれました。
ヤジロウ
マレーシアで出會った日本人は、薩摩出身のヤジロウと言います。
彼は洗禮を受け、率先してザビエルを日本へと導き大活躍します。
彼は日本で通訳する際、キリスト教の神を「大日」と訳したそうです。
仏教関係者が大歓迎するのを不審に思ったザビエルは言い換えさせます。
神の名は、「ゼウス」にしてください!
<ちょっと、怒っていたかも??m(- -)m??>
ヤジロウは、九州訛りのポルトガル語を話していたのでしょうね。
もし、將軍や天皇との謁見が葉っていても、日本語が難解だったりして~
でも、論客ザビエルの言葉を誠心誠意に訳し、個人信者も増えました。
元琵琶法師のロレンソ了斎 セバスチャン木村 ディオゴ結城 など
葉わぬ謁見
ザビエルは、権力者の將軍や天皇から布教許可を取り付ける予定でした。
しかし、獻上品が少なかった為に、謁見は許されませんでした。
ザビエルは、布教に関して、將軍や天皇の求心力に頼ることを諦めます。
戦亂により雙方の権力が失墜していることを悟ったからです。
日本で布教を図るのは、中國で布教を広めるのが早道と考えたようです。
影響力
3年弱の日本滯在でしたが、彼の熱意と行動は各地に衝撃を與えました。
大友 宗麟の洗禮名は、ザビエルにあやかり、ドン?フランシスコです。
布教の影響は、遣歐少年使節の伊東 マンショやペドロ?岐部にも及びます。
インドゴアへ戻るとき、日本人青年4名も帯同しています。
そのうち、洗禮名ベルナルドはローマまで行きました。
大分ボランティア活動では、ザビエルが歩いた大昔の道を清掃しています。
ザビエルらの苦労を偲びながら、彼の功績に感謝する活動なのです。
堺に、「ザビエル公園」があります。
山口に、「聖ザビエル公園」があります。
大分の大手公園に、ザビエル像があります。
大分銘菓に、「ザビエル」と「ドン?フランシスコ」が後世誕生します。
文責:チリメン「間違っていたらゴメンナサイ」
イエズス會は、ローマ教皇にも認められ、活動がより盛んになる。
35歳のとき、ポルトガル王の要請により、會員4名でアジアへ布教に赴く。
トーレス神父らと共に、インドのゴアで布教活動を行い、信者を多く獲得する。
マレーシア~インドネシアにも、布教の活動範囲を広げる。
ここで日本人と出會います。
その日本人の話では?????
1543年ポルトガル船が種子島に漂著した。
そのとき、鉄砲とキリスト教が伝來した。
以降、日本では南蠻貿易が盛んになっている。
ザビエルは、その日本人から日本の文化と宗教観の高さに感心した。
そして、日本に赴き、キリスト教を広めることを決意する。
1549年の43歳のとき、薩摩に上陸し、大名:島津氏に謁見を許される。
戦國時代の島津家では、將軍や天皇への謁見段取りが出來なかった。
平戸に寄った後、周防の大名:大內氏に謁見し、領內の布教許可を得る。
周防にトーレス神父を殘し、海路で堺に陸路で京へ向かう。
しかし、京では將軍や天皇に謁見が許されず、失意のなか周防に戻る。
1551年ポルトガル船の豊後入港を聞き、海路で國東に陸路で府內に赴く。
21歳の大友 義鎮(のち宗麟)に謁見し、豊後領內での布教許可を得る。
同年に一旦ゴアへ戻る。
日本での布教は、中國大陸からが早道だと考え、中國行きを決意する。
中國広東省に向かう途中で病死する~享年46歳。
沒した70年後の1622年に、聖人となる。
イエズス會
高等教育?宣教活動?社會正義事業を理念の柱とする男子修道會。
現在でも世界中に2萬人の會員がいるそうです。
反プロテスタントでは無く、カトリックの原點回帰を目指す改革派の會です。
元騎士イグナティウスが初代総長で、「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれました。
ヤジロウ
マレーシアで出會った日本人は、薩摩出身のヤジロウと言います。
彼は洗禮を受け、率先してザビエルを日本へと導き大活躍します。
彼は日本で通訳する際、キリスト教の神を「大日」と訳したそうです。
仏教関係者が大歓迎するのを不審に思ったザビエルは言い換えさせます。
神の名は、「ゼウス」にしてください!
<ちょっと、怒っていたかも??m(- -)m??>
ヤジロウは、九州訛りのポルトガル語を話していたのでしょうね。
もし、將軍や天皇との謁見が葉っていても、日本語が難解だったりして~
でも、論客ザビエルの言葉を誠心誠意に訳し、個人信者も増えました。
元琵琶法師のロレンソ了斎 セバスチャン木村 ディオゴ結城 など
葉わぬ謁見
ザビエルは、権力者の將軍や天皇から布教許可を取り付ける予定でした。
しかし、獻上品が少なかった為に、謁見は許されませんでした。
ザビエルは、布教に関して、將軍や天皇の求心力に頼ることを諦めます。
戦亂により雙方の権力が失墜していることを悟ったからです。
日本で布教を図るのは、中國で布教を広めるのが早道と考えたようです。
影響力
3年弱の日本滯在でしたが、彼の熱意と行動は各地に衝撃を與えました。
大友 宗麟の洗禮名は、ザビエルにあやかり、ドン?フランシスコです。
布教の影響は、遣歐少年使節の伊東 マンショやペドロ?岐部にも及びます。
インドゴアへ戻るとき、日本人青年4名も帯同しています。
そのうち、洗禮名ベルナルドはローマまで行きました。
大分ボランティア活動では、ザビエルが歩いた大昔の道を清掃しています。
ザビエルらの苦労を偲びながら、彼の功績に感謝する活動なのです。
堺に、「ザビエル公園」があります。
山口に、「聖ザビエル公園」があります。
大分の大手公園に、ザビエル像があります。
大分銘菓に、「ザビエル」と「ドン?フランシスコ」が後世誕生します。
文責:チリメン「間違っていたらゴメンナサイ」