大分の歴史★キリシタン編★その四?伊東 マンショ
- 更新日:2009年08月10日
- カテゴリ:歴史
天正遣歐少年使節団員の一人
日向の戦國大名:伊東 義佑の孫で、伊東 佑益という。
母は、大友 宗麟の姪と結婚した伊東 義益の妹。

伊東 ドン?マンショ像 大分市遊歩道公園 (撮影日:平成21年5月22日)
伊東 ドン?マンショのご紹介
日向國都於郡(現:宮崎県西都市)に生まれる。
3歳のとき日向國は、隣國:豊後の大友家の屬領となる。
1587年~國が島津軍に占領され、一族郎黨は「豊後落ち」する。
同年、受禮した宗麟は日向奪回を試みるが、耳川の戦いで敗走?撤退する。
10歳のときに洗禮を受ける。 洗禮名は、ドン?マンショ。
洗禮後に、肥前?有馬の小神學校セミナリオに入る。
宣教師バリニャーノの発案で、遣歐少年使節団員に抜擢される。
1582年2月日本出國~長崎港からポルトガル船で出航~このとき13歳
1584年8月ポルトガル王國の港に到著。
1585年~ローマ教皇:グレコリュウス13世に謁見。
同年、帰國にむけてローマを出航~ポルトガル船に乗り換え喜望峰を回り~
1590年6月~長崎港に到著~このとき21歳。
翌年、元宣教師:ルイス?フロイスと共に、太閤:豊臣 秀吉に謁見。
このとき、活版印刷機を持ち帰り、秀吉の前で西洋楽器を演奏しました。
しかし、謁見から5年後に、秀吉はキリシタン禁教令で弾圧を始めます。
マンショは潛伏して布教活動をするが、32歳のときマカオのコレジオに入る。
39歳にして司祭となり、再び日本へ入國し潛伏の布教活動を行う。
追放を逃れる潛伏先は、小倉~中津~萩~山口~長崎と移動する。
長崎のコレジオで病死~享年43歳。
二年後の1614年には、江戸幕府による キリシタン禁止令が出る。
「豊後落ち」
島津軍に敗れた日向の大名:伊東家は、國を捨てて豊後に亡命します。
日向國は元屬領で、遠縁にあたる大友家に助けを求めたのです。
しかし、「豊後落ち」は、悲慘な逃避行でした。
島津軍を避ける為、危険な崖地を登る過酷な山越えが待っていました。
出発時は150人を超えていたのに、亡命できたのは半數以下と言います。
8歳の佑益は、家臣の背に負われて亡命できました。
佑益が府內(現:大分市)で目にしたのは、南蠻渡來の文化と宗教でした。
アルメイダが造った社會貢獻施設や宗麟の改宗が影響を與えたと思います。
今で言う、カルチャーショックは、とても大きかったと想像できます。
大名家に生まれながら地位の保証を失い、これからの人生を考えます。
助けられた命で、社會奉仕をする~彼はキリスト教に傾倒していきます。
小國王の子だったザビエルの境遇と重なるものが、多々あります。
10歳の佑益は洗禮を受け、マンショと名乗り、肥前の小神學校へ入ります。
「天正遣歐少年使節」
大友 宗麟の名代として、ローマ教皇へ謁見する特使として選ばれました。
當初の名代候補は、宗麟の甥でしたが、調整が付きませんでした。
九州のキリシタン大名:大村 純忠と有馬 晴信も名代を送ります。
千々石ミゲル(13歳)
副使として、原マルティノ(13歳 )、中浦ジュリアン(14歳)
このころの宗麟は、島津軍の攻撃に対して守勢に回り、名代を出す余裕が
無かったと言われています。
発案者の宣教師:バリニャーノが、遣歐を取り決めたと思われます。
少年使節団4名を乗せたポルトガル船は、1582年2月長崎港を出航します。
マカオ経由で1583年インド?ゴア~1584年8月ポルトガルへ到著。
同年、リスボンでポルトガル王に謁見~マドリードでスペイン王に謁見。
1585年ローマのメディチ家を訪問~ローマ教皇:グレコリュウス13世に謁見。
少年使節団は、各地で熱狂的な歓迎を受けました。
使節団員は日本の正裝で、日本國と文化を歐州人に知らしめたのです。
東洋から來た彼らのニュースは、歐州の広範囲に流れ好意の的となります。
この好意人気は、明治政府がキリスト教禁止を解除する外圧となりました。
使節団が帰國した1590年~マンショは天草でイエズス會に入會します。
頼りにしていた宗麟の死から3年後のことです。
「豊臣 秀吉に謁見した後」
マンショは、イエズス會では未だ修練師です。
1591年22歳のとき上京し、ルイス?フロイスと共に秀吉に謁見しました。
秀吉はたいそう気に入り、家臣になることを薦めますが、マンショは斷ります。
マンショは、キリスト教の宣教師になる決意を秘めていたのです。
この謁見の3年前に秀吉は、バテレン(外國宣教師)追放令を出しています。
この追放令は、キリスト教徒になることは黙認に近いものでした。
事実、大名が改宗する場合は、許可制です。
しかし、
謁見から5年後の1596年に、秀吉はキリシタン禁教令を出し迫害を始める。
キリスト教の布教黙認を続けた場合、秀吉の予想見解はこうです。
?信者が領地や財産を寄贈する事実から、一向一揆の二の舞になる
?秀吉を恐れずに、フランシスコ會など公然と布教活動を行う組織が現れた
?朝鮮出兵中に起きたサン?フェリベ號事件から、外國の侵略を未然に防ぐ
日本二十六聖人
1597年に秀吉は、宣教師10人と信者16人を長崎で処刑する。
殉教した日本人20人と外國人宣教師6人は、1862年聖人となりました。
マンショは潛伏して布教活動をしますが、43歳の若さで早世してしまう。
2年後の1614年に、江戸幕府によるキリシタン禁止令。
21年後の1633年に、使節団の一人:中浦ジュリアンが殉教。
27年後の1639年に、ペドロ?スカイ岐部が殉教。
261年後の1873年に、外圧によりキリスト教の禁止令が廃止となる。
文責:チリメン「間違っていたらゴメンナサイ」